中禅寺秋彦 の履歴(No.9)
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- 中禅寺秋彦 へ行く。
- 1 (2006-10-14 (土) 04:40:48)
- 2 (2006-10-14 (土) 06:19:29)
- 3 (2006-10-15 (日) 00:32:17)
- 4 (2006-10-19 (木) 22:23:15)
- 5 (2006-10-22 (日) 16:28:51)
- 6 (2006-10-22 (日) 22:50:49)
- 7 (2006-10-28 (土) 19:43:49)
- 8 (2006-11-03 (金) 15:21:05)
- 9 (2006-11-11 (土) 15:53:11)
- 10 (2006-11-12 (日) 17:27:48)
- 11 (2006-11-18 (土) 17:12:00)
- 12 (2006-11-19 (日) 09:46:48)
- 13 (2006-11-21 (火) 10:32:16)
- 14 (2006-11-25 (土) 00:05:38)
- 15 (2006-12-09 (土) 18:40:52)
- 16 (2007-02-16 (金) 14:06:27)
- 17 (2007-02-28 (水) 20:40:57)
- 18 (2008-01-06 (日) 12:28:32)
- 19 (2012-04-04 (水) 23:12:22)
- 20 (2012-04-07 (土) 00:49:43)
- 21 (2023-09-23 (土) 10:57:53)
- 22 (2023-09-23 (土) 10:57:53)
中禅寺秋彦(ちゅうぜんじあきひこ)†
概要・経歴†
古書店を営む傍ら、武蔵晴明社の神主や憑物落としなどの副業を持つ。各国各地の宗教・習俗、口碑伝承の類の知識が豊富な能弁家。「京極堂」は妻の実家である京都の菓子司の屋号を勝手に拝借したもの。
分類されていない本を見ると異常に怒る癖がある。出不精だが、良い本(例:「桃山人夜話」の極美本)が入ったと聞きつけると、大喜びで出かける。
口癖は、「この世には不思議なことなど何もないのだよ」。
恐山で産まれて7歳までは下北半島で暮らし、7歳で祖父に引き取られた。旧制高校時代に榎木津礼二郎や関口巽と知り合う。
戦時中は、徴兵されて帝国陸軍第十二研究所に配属(少尉)。宗教的洗脳実験に携わり、「堂島大佐の懐刀」と呼ばれる。
戦後は高等学校の講師。昭和25年、関口巽の結婚と同時期に講師を辞め、古本屋「京極堂」を開業。京極堂は中野のどこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道(眩暈坂)を登り詰めたところ、貧相な竹薮に挟まれた蕎麦屋の隣。武蔵晴明社は、その先にある小さな森の小さな社。
昭和25年 高等学校講師を退職
昭和25年 古本屋「京極堂」開業
昭和27年7月初旬 久遠寺家で憑物落とし
昭和27年10月1日 美馬坂近代医学研究所で憑物落とし
昭和27年12月1日 久保竣公の葬儀を執り行う
昭和27年12月 「桃山人夜話」を買いに京都の「拾鶴舘」へ出かける
昭和27年12月15日 聖宝院文殊寺で憑物落とし
昭和28年2月 明慧寺で憑物落とし
昭和28年3月 聖ベルナール女学院、織作家で憑物落とし
昭和28年4月 連続目潰し魔・絞殺魔事件の真犯人「蜘蛛」の正体を指摘
昭和28年6月19日 韮山山中で憑物落とし
外見†
・親でも死んだような仏頂面(姑獲鳥の夏)
・親戚全部が死に絶えでもしたような仏頂面(魍魎の匣)
・町内会の人間全部が死に絶えたかのような仏頂面(狂骨の夢)
・東京が全滅したかのような仏頂面(鉄鼠の檻)
・日本が滅んでしまったかの如き仏頂面(絡新婦の理)
・亜細亜が全部沈没してしまったかのような仏頂面(塗仏の宴)
憑物落とし時は、墨で染めたような真っ黒い着流しに晴明桔梗が染め抜いてある薄手の黒い羽織を纏い、手には手甲、黒足袋に鼻緒だけが赤い黒下駄といういでたち。
家族・親族†
妻:中禅寺千鶴子
妹:中禅寺敦子
そのほか:石榴
別名・仇名・通称†
京極堂(屋号)、師匠(鳥口守彦)、堂島大佐>堂島静軒]]の懐刀(帝国陸軍第十二研究所時代)
登場作†
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